鍼灸の歴史① 日本文化の原点、縄文から

鍼灸の歴史をいくつかの参考文献を基に自分なりに纏めてみました。こちらは新しい情報を元に訂正、改正していく予定です。

 

針灸の歴史以前に日本の歴史と世界史はとても重要です。歴史には色々な説があり楽しいですが、ここでは最近注目され始めている説を少し合わせてみました。これを知ると日本と周辺国の印象もだいぶ変わってきます。

 

縄文時代(一般的には1万3000年~2300年頃)は平和で豊かな時代が長く続たといわれています。これは他の国と比べたら奇跡的なことです。この時代にどういった医術が行われていたかは不明ですが、1万数千年前と思われる縄文人たちの住居のあとからも薬として使ったと見られる植物(薬草)が多数発見されているそうです。日本の医術の原点ですね。

 

平和な暮らしの中で発展する文化や技術と、早くから戦乱が続く中で生まれる文化や技術はもちろん異なったものになります。

 

中国伝統医学の基礎が形成されたのは、中国医学の古典「黄帝内経」が編纂された三世紀頃(後漢 25~220年頃)とされます。近年に馬王堆、張家山で発見された医書はそれより200年ほど前の前漢代(前202~後8年頃)のものといわれます。漢代は日本の弥生時代(前300~300年頃)にあたります。

 

下の図(上段)は史記や黄帝内経が書かれた前漢代(前202~後8年頃)の領域です。最初にこの領域を統一(前221年)したのは秦です。最初に皇帝を名乗ったので始皇帝と呼ばれます。しかし統一後は、わずか15年程(前206年)で滅んでいます。

(下段)の図は、日本の室町から江戸初期にあたる明(1368~1644年)の領域です。秦や漢代は明の半分位の狭い領域でしょうか。明代はさすがに広いですが、それでも万里の長城以南に限定された地域です。

 かわいそうな歴史の国の中国人 宮脇淳子著 2014年 徳間書店 より

 

一般的に中国史では、夏・殷(前1500年頃)・周(東周・西周)・春秋戦国・秦・前漢・新と続き、後漢の後は三国志で有名な三国時代をへて西晋・東晋(五胡十六国)・南北朝・隋・唐・五大十国・宋(金・遼)・元・明・清・中華民国・中華人民共和国となります。

 

ちなみにこの時代区分に合わせると日本史は、日本です。覚えやすいですね。

 

大陸の西方や北方には匈奴、鮮卑、突厥、柔然などと呼ばれるトルコ系、モンゴル系、ツーングース系、チベット系などの様々な遊牧民族がいました。

秦は西方から来た遊牧民が建てた王朝ともいわれています。さらに劉邦が漢を統一した2年後には北方騎馬民族である匈奴に攻められ降伏、匈奴の属国のようになっていたという説があります。五胡十六国の五胡も北方や西方の遊牧民です。西晋も匈奴に滅ぼされ、残った者が江南に逃れ東晋を建てます。隋や唐も北方遊牧民が建てた国といわれます。宋の時代にあった金はツーングース系の女真人(後の満洲人)、元はモンゴル人、遼もモンゴル系の契丹人です。清は満洲人が建てた国です。

そもそも私たちが「中国史」と言っているものは、アジアの東側の大陸に興った多くの国や民族の興亡、入れ替わりの歴史であり簡単に言うと「大陸に興った様々な国の歴史」です。

また「韓国史」は朝鮮半島に興った様々な国の歴史」です。

日本はこうした大陸や半島に興った様々な国と交流、時に戦って来たということになります。

 

つづく…

針灸の歴史 ② 半島南部から

 日本の古墳時代にあたる6世紀まで、中国文化は仏教伝来の経緯にともない朝鮮を経由して入ってきました。5世紀には新羅から金武が、百済から徳来が来日し医を伝え、6世紀に入ると百済より医薬学を含む五経博士が定期的に来日。欽明天皇15年(555年頃か)には百済から医学博士、採薬師らが来日し医薬知識を普及させた。

考古学や研究が進み「古代日本は朝鮮半島から稲作などの先進文化を学び、国を発展させてきた」という教科書に書かれていたような説は現在否定されてきています。稲の遺伝子からみても長江辺りから直接伝わっているようです。

朝鮮半島は今から1万2千年前に人類の活動の形跡が消え、7千年前に再び人類の痕跡が現れはじめます(空白の5千年)。そこに現れたのはなんと縄文土器でした…。

朝鮮半島南部には縄文土器や弥生土器、また14基もの前方後円墳が発見されています。人のいなかった朝鮮半島南部に対馬方面から来た縄文人が住みはじめ、そこに日本の文化圏が形成されていたという説があります。

3世紀末頃に書かれた魏志韓伝には「韓は帯方の南に在り、東西は海を以って限りとなし、南は倭と接す」とあります。宋書倭国伝では雄略天皇(418〜479年)に「倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」と朝鮮半島南部にある6国の軍事的支配権を承認しています。

朝鮮三国時代(4~7世紀頃)は満洲から朝鮮半島北部にかけて高句麗があり、この高句麗は北方騎馬民族(ツングース系の貊人)が建てた国です。南方には百済、新羅、そして南の端には倭国がありました。

古事記や日本書紀には神功皇后(日本書紀には170~269年とあるが、3~4世紀頃か)による三韓征伐について書かれています。また百済の3代の王子らは倭国に預けられたり、新羅の初代の王の側近は倭人とされています。日本の倭国(任那、加羅か)は百済、新羅を支配してたようです。

この新羅については、中国南朝・梁(502~557年)の「梁職貢図」に「或るとき韓に属し、あるときは倭に属したため国王は使者を派遣できなかった」とか書かれています。

さらに日本書紀には新羅が任那に侵攻した時(537年か)、大伴狭手彦(おおとものさてひこ)が派遣されて任那を鎮めて百済を救ったとあります。そして欽明天皇23年(562年か)には大将軍として兵数万を率いて高句麗を討ち多数の珍宝・武器を持って帰還したとあります。

この時に、内外典・薬書・明堂図など計164巻、仏像1体、伎楽調度一揃いなどを持って来たと「新撰姓氏録」(815年)に書かれています。これが医薬書伝来の最古の記録とされます。

その他にも日本、中国、韓国のそれぞれの文献の中に倭国と朝鮮半島に関する様々な記載があり、そもそも新羅、百済は共に、あるいはどちらかは倭人の建てた国だったといった説もあるようです。いずれにしても日本と朝鮮半島南部に興った国とは非常に近い関係であったようです。

これらを踏まえると中国の歴史、朝鮮半島から伝わったと聞いた時の印象もだいぶ変わってきますね。

 

つづく…

針灸の歴史 ③ 遣隋使・遣唐使から

飛鳥時代の7世紀初頭には聖徳太子による遣隋使の派遣が始まり、遣唐使(838年)が終了するまでの間に多くの医学書がもたらされたました。

中国医学の古典の原点である「黄帝針経」(黄帝内経・霊枢)は7世紀には日本に伝わっていたようです。

平安時代(895年)に書かれた日本の在書目録をみると、中国医書の質量はこの時すでに隋に匹敵するか、もしくは凌駕していました。これは凄いですね。

現存最古の医書である「医心方」が丹波康頼(後漢の霊帝の子孫か)により編纂されたのは984年です。丹波家は以降900年もの間、宮廷医の地位を確保しました。

この「医心方」は唐伝来の医書をまとめたものですが、陰陽五行、脈論など排除傾向にあり、この時代からすでに日本的な傾向があらわれています。

室町から江戸時代には、様々な日本独自の針灸流派が生まれました。それらの中には仏教医学や道教などの影響もみられます。

この時代の針灸研究は「日本文化としての針灸」を捉えるためにもとても重要だと思います。近年になってようやく本格的に研究され始めているようです。

またこの時代の針灸書に中国人に習ったとあるのは、日本の武術の流派と同じで実際には習っていないが権威付けのため中国より授かった(陳元贇など)とする傾向があったものと同じでしょうか…。

江戸後期には文献考証を重視する学派が興り、その活躍は幕末に頂点をきわめました。

 

つづく…

針灸の歴史 ④ 明治から昭和へ

明治時代を迎えると、医学も他の例にもれず西洋化が進み、明治8年には西洋医学による医師開業試験が実施されました。これらの政策に対して漢方医たちは漢方存続運動を展開したが、明治28年の国会審議により否決され、漢方医は基本的にその一代限りで後継者の養成を認められなくりました。

針灸は明治4年に杉山流針治講習所が廃止されましたが、明治18年には各都道府県が免許鑑札を与え営業可能に。明治44年内務省による「鍼灸術営業取締規則」が制定され、4年以上の臨床実務経験を経て試験に合格するか指定の学校を卒業するか、いずれかの後に営業鑑札を受けて営業可能となりました。

明治時代の改正で大きな影響を受けたのは、針灸よりも漢方(狭義の)の方でした。

明治、大正、昭和時代は針灸の西洋医学的研究が行われ、一方で古典に基づく針灸を研究実践する動きもありました。

戦後の昭和22年9月にはGHQにより針灸按摩などを禁止する要望が出された。これに対して業界は種々の反対運動を行い同年12月には現在の身分法の前身である「あん摩、はり、きゅう、柔道整復師営業法」が制定された。本法によって営業免許から資格免許に。その後昭和39年に法改正が行われ、ほぼ現行の形式に。

9月に禁止要望が出されましたが、業界関係者の種々の反対運動のお陰もあり、12月には資格免許の法が制定されたようです。

日本針灸は他の多くの日本伝統文化と同じく、明治と戦後のGHQによる危機を迎え、そこで失われたものも大きかったかもしれませんが、関係者の努力でなんとか繋がって命脈を保つことが出来たとも言えます。

その頃、中国大陸では…

 

つづく…

針灸の歴史 ⑤ その頃、中国大陸では…

清国では1882年に針灸禁止令がだされ、針灸は低迷します。政府の方針で庶民までは強制されなかったようですが、これにより中華民国(1912~1949)の初期には、ほとんど壊滅状態になっていました。

さらに中華民国政府は1929年に中医廃止令を出し、中国医学を廃止しようとしました。その後に反対運動が起こり、1937年にようやく政府衛生省に中医委員会が設立されます。

清国から中華民国時代(1875~1937年)の60年余りの期間に、それまで日本に蓄積され、中国ではすでに失われていた物も含む多くの貴重な文献が中国へ還流されています。

さらに大正~昭和前期には日本人が著した針灸・漢方医書も中国語で翻訳、刊行されます。

中華民国時代に活躍した針灸学者で、現代中国針灸の基礎作りに貢献したとされる承淡安(1899~1957年)は1934~5年に来日し、日本における針灸の学術と教育の情報を収集し、多くの文献を持ち帰っています。この時に日本の針灸学校の呉竹学園でも半年ほど学んでいます。

この清から中華民国時代初期にかけて大陸の針灸が壊滅状態になったこと、そこから日本の情報を収集し、また日本からも学んで来たこと。これは鍼灸の歴史としても、後に作られた「現代中医学」の成立過程を知る上でも重要です。

1949年に現在の中華人民共和国が建てられます。

中華人民共和国成立後も続けて日本人の著作が多く中国で出版されてたようです。

5億を超える人を西洋医学だけでは支えきれないため、農村に促製されたのが赤足の医生(はだしのいしゃ)です。短期間で習得させるため簡素化、整理したのが中医学であった。

中華人民共和国になり毛沢東は中国医学を推奨しますが、それは伝統的な中国医学でなく、中国医学と西洋医学を結合させた「新たな医学」を目指したようです。

その後、この毛沢東による大躍進政策(1958年~)と、さらに続く文化大革命(1966~1976年)で死者1億人以上(餓死者数千万人)ともいわれる想像を絶する悲惨な時代となります。

昭和47(1972)日中国交回復

そしてこの後に国家主導で「中医学」が作られますが、この中医学が編纂された経緯は現在でも政治的秘事とされているようです。

 

つづく…。

針灸の歴史 ⑥ 今とこれから

大陸では清代に針灸が壊滅状態になった後、中華民国政府による中医廃止令でさらなる低迷が続きました。そして中華人民共和国となり、毛沢東は中西医結合医学という「新たな医学」を目指しましすが、大躍進政策、文化大革命(1966~1976年)により中国国内は想像を絶する悲惨な状況となります。

昭和47(1972)に日中国交が回復。

この後(1970年末頃か)に国家主導で「中医学」が作られますが、この中医学が編纂された経緯や典拠などは現在でも政治的秘事とされ公開されていません。

中医学というと一般的に(専門家もですが)「歴代の中国伝統医学を近年に整理編纂したもの」となんとなく思われていますが、実際は全く違います。

この中医学の問題は以前にも書きました。

https://ohisama-hari.blogspot.com/2022/01/blog-post_22.html

https://ohisama-hari.blogspot.com/2022/10/354p-10-20-69-13-p-1970-1516p.html

そして大陸で針灸が壊滅状態となった清代から、この中医学が纏められた時代までを支えたのは、実は日本からの情報や日本の漢方、鍼灸書籍でした…。

「中医針灸の成立には近代日本の針灸書の存在が深く関わっているのである。著者小曽戸もかつて先達の岡部素道、間中善雄先生らから直接・間接にその旨うかがったことがある。」   164P

今わかる範囲でこの中医学の定義をまとめると

「中医学とは歴代の中国伝統医学の考えをひとつに(強引に?)まとめ、さらに西洋医学の概念も取り入れ、中西医学統合を目指した時に生まれた弁証論治(中医薬)の理論を中心に、また針灸もこの中医薬の弁証論治にそのままあてはめ、中国政府主導(1970年末頃からか)で作られたもの。その編纂の経緯や典拠は示されていない。ただしその成立過程には日本の漢方・針灸書が深く関わっていると思われる。」

という感じでしょうか…。

現在、日本の鍼灸学校の教科書は、なぜかこの中医学の影響が年々強くなってきてしまっているようです。学生にとってわかりやすく纏まってるわけでもなく(むしろ理解しにくい)、他の鍼灸療法と比べて効果が高いという事もありません。しかもこの中医学とは何かも示されないままにです…。

おわりに

現存する世界最古の国家は日本です。

日本は縄文時代からの感性を基に、時代とともに様々なものを取り入れ工夫し洗練させてきました。針灸の歴史もまた同じです。

「最近グローバルという言葉が流行っているが、文化においてグローバル化がその保持や発展につながるとは思えない。むしろ逆行する動きであろう。固有の文化は多様化の結果であり、一様化されればそれは文化とはいえまい。」7P

あらゆる分野でグローバル化が急激に進められている今こそ、日本の伝統に根差した針灸の教科書と教育が大切ですね。

 

針灸の歴史①~⑥

参考文献

針灸の歴史 悠久の東洋医術 小曽戸洋・天野陽介著 大修館書店

現代中医鍼灸学の形成に与えた日本の貢献 真柳誠

https://square.umin.ac.jp/mayanagi/paper01/MoChiAcu.html

日本東洋医学サミット会議HP

http://jlom.umin.jp/page4.html

天皇の国史 PHP文庫 竹田恒泰

かわいそうな歴史の国の中国人 徳間書店 宮脇淳子

悲しい歴史の国の韓国人 徳間書店 宮脇淳子